名言採集 第1回「会っちゃうくらいでちょうどいい」

秋は調子がいい、という自覚があった。然るべき季節になると考え事がよく進み、整理する、選択する、決断する、といった行為の捗りがよい。と、長らく思っていたのだけど、去年の秋はまったく振るわなかった。

来なかったいい波は、ずいぶん遅れて春に来た。秋冬の停滞や奮闘が無駄だったかと言えば、そんな風には思わない。むしろ不調期を不調期として区切ってしまうことで、考える材料にすることができる。(カタルタみたいなものだ)そう考えられることも、あるいは調子がいい証拠と言えるかもしれない。

先日、鎌倉の友人と近況を報告しあう機会があった。
俺なんてろくすっぽ人に会ってないよ、と 僕が言うのに答えて、友人がこう言った。

わざわざ会わなくていいよ
会っちゃうくらいでちょうどいい

僕ら自身が会うか会わないかの話ではない。人に会うこと自体に対する考えをさらっと述べたものだ。補うなら、「わざわざ人に会おうとするのではなく、たまたま出くわすくらいでちょうどいい」ということだ。もっと話すべき内容へと話は流れていったので、真意がどうかなど確かめてはいない。

僕にしてみれば、彼は好奇心の枯れない、アクティブな友人なのだが、そんな彼にしてこのフレーズというのは一瞬、意外にも思えた。と同時に、行動することがもてはやされるこの時代にあって、その言い切り方に清々しさをおぼえた。

考えてみると、たまたま「会っちゃう」タイミングというのは、相手にとっても自分にとっても、フェアに訪れた機会だ。誰かの意志や願望からの直接的な影響の外にある。意志vs.意志のデッドスポット。誰もが少なからず自分の人生をコントロールしたいと思っている中にあっては、貴重な機会だ。

その機会をどんなものにするかは、人に会わない時間によってあらかた決まっている。自分の時間を自分なりに真っ当に生きている間に、何を考え、何をしていたかが、たまたま会っちゃったときに試される。逆に会おうとすること自体が先に立ち、中身がなければ空虚だろう。(そして、偶発的な体験の中に、可能性が垣間見えるあたり、これまたカタルタみたいじゃないか)

今や油断すると、人と人は限りなく繋がり、考えが混ざり合っていく。良かれ悪しかれ、調子が揃っていってしまう。それを後押しするような環境が整い続ける中、あえて区切りを設けること、接続しないことの価値を思い出させてくれるのが、先の言葉のように思う。

会っちゃうくらいでちょうどいい(内堀敬介)

積極的にコンタクトを取ろうとすることの価値を貶めるつもりはないにせよ、ときどき思い出したくなる言葉だ。