自分自身の思考の進め方を自覚的に捉えようとしたことはあるだろうか。評論家・小林秀雄と数学者・岡潔による対談本『人間の建設』(新潮文庫)の中に、お互いの思考の進め方を語る部分がある。抜きん出た業績を残した二人が、どのように自身の頭の中の動きを捉えていたかを窺い知ることができ興味深い。
小林 岡さんの数学というものは数式で書かれる方が多いのですか、それとも文章で表されるのですか。
(P121-122)
岡 なかなか数式で表せるようになってこないのです。ですから、たいてい文です。
小林 文ですか。つまり、その文のなかにいろいろな定義を必要とする専門語が入っているというわけですね。
岡 自分にわかるような符牒の文章です。人にわからす必要もないので、他人にはわからないものです。自分には書いておかないと、何を考えたのかわからなくなるようなものです。やはり次々書いていかないと考え進むということはできません。だけど数式がいるようなところまではなかなか進みません。
小林 そうすると、やはり言葉が基ですね。
岡 言葉なんです。思索は言葉なんです。言語中枢なしに思索ということはできないでしょう。
小林 着想というものはやはり言葉ですか。
岡 ええ。方程式が最初に浮かぶことは決してありません。方程式を立てておくと、頭がそのように動いて言葉が出てくるのでは決してありません。ところどころ文字を使うように方程式を使うだけです。
偉業を成し遂げた数学者にしてそうなのか、と意外に思う。かといって逆だと思っていたということでもなく、想像のしようもなかっただけなのだが、なんとなく安堵に似た感情を覚えた。同じ人間だなというか、地続きになっているなといったような、何かの可能性を奪われなかった感じ。もちろん数学者になろうという話ではなく、方向性は違っても能力を高めることについて一つの希望となるエピソードのように思える。
もう一つ、「符牒の文章」が気になった。符牒という言葉はあまり使わないが、記号の意と捉えてよいようだ。世界共通言語としての数学という道具を洗練させるために、誰とも共有しない独自の道具を作り出し、使いこなしていたことになる。具体的にはどんなものだったのだろう。
小林秀雄の方はといえば、言葉にたよって考えているかと問われこう答えている。
小林 私みたいに文士になりますと、大変ひどいんです。ひどいということは、考えるというより言葉を探していると言ったほうがいいのです。ある言葉がヒョッと浮かぶでしょう。そうすると言葉には力がありまして、それがまた言葉を生むんです。私はイデーがあって、イデーに合う言葉を拾うわけではないのです。ヒョッと言葉が出てきて、その言葉が子供を生むんです。そうすると文章になっていく。
(P123)
一つの言葉が浮かんでまたその次が浮かぶ感覚はわかる。選んでいるというよりも選ばされているという気すらする。自然に身についてしまった展開が自ずと発動する。知らず知らずのうちに何かの影響を受けたパターンの力によって、思考が進む。人間の思考は少なからずそういうものだろう。社会を考えるどころか、社会とともに考えている。社会に考えさせられている。日本語に考えさせられている。